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自作小説「影絵」の原稿置き場です。 ※未熟ではありますが著作権を放棄しておりません。 著作権に関わる行為は固くお断り致します。 どうぞよろしくお願い致します。
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第一章 方舟

一、

今日も温い風が頬を撫でていく。
眼下に広がる真っ青な海を、赤茶の大船が、ゆっくりと白い波を残して港へと泳いでいる。
「おや、ジュナ。そんなところに座っていたら危ないよ?」
通りすがりの小母達が、少年の背に声をかけた。
少年は振り返って、にっ、と笑う。
「大丈夫だよ、ほら、片足鉄柱に引っ掛けてるから」
少年は赤錆にまみれたはげかけた鉄の梯を指さした。狭い隙間に器用に左足を引っ掛けている。小母達は少し眉根を寄せて顔を見合わせた。
「ジュナ。やっぱり危ないと思うけどねえ。こういう鉄の棒を甘く見ちゃいけないんだよ。ふとした時に怪我して錆びが傷口に入ったりしたらどうするつもりだい」
「抜けなくなって足を切っちまわなきゃいけなかった子だって過去にいるんだよ」
少年は肩をすくめた。
「もう・・・怖いこと言わないでよおばちゃん」
少年はびくびくした様子でそっと足を引き抜く。
「でもさあ、こうしとかないとたまに馬鹿がおれの背中押してくるんだもん。この間本気で海に落っこちるとこだったんだから」
「そもそもそんなところに登らなきゃいいと思うけれどねえ」
小母の一人が苦笑した。
「ほら、買いたてのパンをあげるよ。降りてきなさい」
「ほんと?わぁやった!おれちょっと小腹すいてたの」
「仕方のない子だねえ」
小母達はくすくすと笑う。
「いっぱい買ったからね、好きなだけもらって行きなさい」
「じゃあ・・・これだけ」
少年は固めのパンを二つもらう。
「あんたんとこは三人家族だろ」
「いいんだ。おれとレモは半分ずつ食べるから。ありがとおばちゃん!」
少年はにっ、と笑って、建物の間の細道をかけ登っていく。
残された叔母たちはくすくすと笑った。
階段を上り終わると、そこには広場が広がっている。
この狭い半島で土地を広げるために、ここクロワシュには階段が張り巡らされ、広い敷地は高地にあった。
この広場から街を見下ろすと、とても綺麗な長めだ。
橙色の瓦が敷き詰められた三角屋根が、真っ青な海によく映える。
防壁は白い石を積み上げて作られていて、陽の光を反射し目に眩しい。
少年はきょろきょろと屋根を見渡した。一つの屋根の上で座っている小さな人影を発見する。
「今日はあそこか」
少年は楽しげにつぶやいてもう一度、反対側の階段を駆け降りた。
「レモ!!レモレモ!!降りてきて!!」
2番街のとある煙突屋根に座る少女に、少年は手を大きく降った。少女は身を乗り出す。顔が逆光でよく見えない。少年は目元に手を当て影を作った。
「なあに?」
「パンもらったよ、ジョーンズさんちのおばちゃんに」
少女はむっ、とした。
「返してきなさい」
「なんでぇ」
「あのねえ、家は施しもらうほど貧乏じゃないでしょう?」
「でもせっかく好意でくれたんだよ?今更突き返せないよ。却って心証悪くするってば。後で別の形でお礼すればいいことだろ?」
「もう・・・たしかにそれも一理あるけど・・・」
少女は嘆息して、ふわり、と身軽に屋根から飛び降りた。少年もまたその体をふわりと受け止める。
「ありがと」
「どうも」
「て、あ!ジュナったらもう!!早速食べてるじゃない!行儀悪いなぁもう・・・」
「だって腹減ってたんだもん。いいじゃん。おれ成長期」
「もう・・・お母さんに怒られてもかばってなんかあげない!」
「えー・・・でもさ、人様の家の屋根に登ってるレモだって結構図々しいよね」
「わたしはちゃんと仕事してるもん!」
「変わってるよね、屋根登りたいからって、普通煙突掃除なんかする?だからうちが貧乏だって思われるんだよ」
「そのお駄賃でいつもジュナにおやつ買ってあげてるでしょ?もう・・・知らないわよ、あとで絶対肥満体になるんだから・・・!」
少年はくすり、と笑った。
「食べない自分よりおれの方が痩せてるのがそんなに不満?」
「不満に決まってるわ!!」
「はいはい」
少年のくすくす笑いに合わせて、その蜂蜜色の柔らかい髪がふわふわと跳ねる。
少女はそれを見ているうちに、なんだかどうでもよくなってきたのを感じた。
なんだかんだで自分は弟に甘い姉なのである。
少年は少女の左手を手にとって、まじまじと見つめた。少しだけ顔をしかめる。
「こんな・・・爪まで真っ黒けになってさ。女の子がこんなことしなくてもいいのにさ」
「いいの。洗えば取れるもん。わたしは生活力を持った乙女になるの!」
「片付けもまともにできないくせに何言ってるんだか」
「うるさいわよ、聞こえてるんだから」
「はいはい」
少年は、くすくすと笑いながら、その手に自分の指を絡ませた。
今日も二人は仲良く家路につく。

「それでね、ジュナがまた他人様に迷惑かけてるの」
「だからぁ・・・くれるって言われたから素直に貰ったんだってば。断るとかえって悪いでしょ?あの手の話は、断っても『いいからいいから』って絶対になるんだから。レモは考えすぎだよ。ったく・・・変に大人びちゃってさ」
「ほんとはもうがきんちょじゃないくせに子供ぶってるジュナの方があれよ、ちょっとどうかと思うわよ」
「はいはい、そこまでね」
二人の母―テレザは苦笑しながら二人にスープを装った。
「お母さんからも何か言ってやってよ!!」
レモが膨れると、テレザはくすくすと笑った。この辺の受け流し方が本当にジュナそっくりである。
「まあ、いいじゃない。二人を足して二で割ったら丁度いいわよ。助かるわぁお母さん・・・!あれこれ言わなくても二人でなんとかしてくれるんだもの」
「もう!お母さんまで!」
「ジョーンズさんのお家には今度パイを焼いて届けるわ。持ちつ持たれつよ。あんたたちは、人からしてもらった親切をちゃんとお母さんに隠さずに話すこと。それだけ守ってくれればお母さん心配ないわ。あとはお母さんの仕事。大人の仕事よ」
テレザはにっこりと笑った。
「むう」
「食わないならおれ食っていい?」
「食べるもん!」
レモはむっとしてパンをちぎると口に放り込んだ。
広場の大鐘が鳴る。
三人は、はっ、として手を止め、耳を澄ませた。
先刻までがやがやと活気づいていた外の街中も、しん、と静まり返る。
10回目の鐘の後、柱に据え付けられたラヂオから、雑音と共に人の声が響いた。
『クロレス国全国民に告げる』
それは嗄れた男の声だ。
『本日午前13時8分、東端バルシュの地に敵軍侵攻開始。直ちに臨戦態勢をとるべし』
『繰り返す。バルシュにフェイ国軍の侵攻確認。全国民は直ちに体制を整えよ』
「来たわね」
テレザが静かに呟いた。
「防空壕へ逃げましょう。レモ、荷物を取っていらっしゃい」
「はい。ほら、ジュナ!」
レモは、青ざめた顔のジュナの背中を叩いた。ジュナは小刻みに震えている。
本当は、レモだって、ジュナをあんな暗いところへ行かせたくなかった。けれど仕方のないことなのだ。レモはジュナの手をそっと握った。ジュナは力なくその手を握り返した。
3人が手早く身支度を整えていると、遠慮がちにドアが叩かれた。テレザはドアの傍らのノブを下げて、レンズをのぞき込む。やがて錠前を外した。
素早くレモより明るい薄茶の髪をした、眼鏡の青年が入ってくる。
「ヒュベル・ピヴレ、ヘイニ。どうしたの?」
「ヒュ、ヒュベル、ピヴレ」
ヘイニ、と呼ばれた少年は腰を折って胸の辺りを苦しげにつかんでいる。
「ヘイニ!どうしたの?息切らして」
レモは青年―ヘイニ=アグネタ=ヒュモレの背中をさすってやる。
ヘイニはふう、と息を整えると肩にかけた蔓編みの鞄から薄青のレンズの入った眼鏡を取り出した。
「これ、ジュナに必要かと思って。ごめん、完成までに時間がかかってさ」
「何・・・これ」
ジュナはおそるおそるそれを受け取る。
「君閉所恐怖症、狭所恐怖症だろ?避難所生活はきついんじゃないかと思って作ってたんだ。勘違いすんなよ。ただの実験材料だからな。成功したら売れると思って。同じような症状持ってる人はこの国にも沢山いるし」
「これ・・・かけるだけでいいの?」
「それかけとけば別の景色が見えるようになってる。多分、気休めだとは思うけど、少しは違うと思うから」
「ヘイニ・・・あなた天才!!」
胸がいっぱいになって、思わずレモはヘイニに抱きついた。
「ちょっと!!」
ヘイニは不機嫌そうな声を出す。けれどその薄赤茶の瞳は明らかに動揺している。
「ごめんごめん。レモも喜んでるんだよ。こいつ感極まると抱きつくくせあるし。ありがとう、ヘイニ」
「結果を報告しろ。それだけが条件だ。無償で試作品を貸してやるんだからありがたく思えよ」
「うん、ほんと」
「ありがとう、ヘイニ」
テレザが微笑むと、ヘイニは顔を真っ赤にした。
「べ、別に・・・何度も言いますがこれは俺の研究のついでなだけですので。じゃ、俺はこれで。師匠んちにいかないと。あの人耳遠いから絶対放送聞こえてないと思うし」
「気を付けてね!」
レモは最後にぎゅう、とヘイニを抱きしめた。ヘイニは苦笑してレモの頭を撫でる。
「じゃあ、ナケミィナ」
ヘイニは再び帽子を深くかぶって素早く扉を締め出て行った。
ジュナは眼鏡をぎゅっ、と握りしめる。
レモはほっとしていた。ジュナは物心ついた頃からずっと、沢山の精神的な恐怖を抱えている。それがなぜかはレモにもわからなかった。テレザは何か思い当たる節があるようだったが、きちんと話してはくれなかった。
まず、狭い空間がだめだ。それから、蔓をイメージした模様や、虫の類もだめだった。
不規則に並んでいるものを見ても過呼吸を起こした。
昔と比べたらずいぶんと克服した方だとは思う。レモが散らかし魔なせいと、テレザが何かの嫌がらせのようにジュナに唐草模様の刺繍をするよう強要し続けたため、いくらか耐性が付いてきていた。閉所への恐怖も、ある程度の広さがあれば耐えられるようになってはいる。けれど、戦争が各国で広がっている今、ジュナのこういった体質はひどく懸念材料だった。避難所はジュナの怖がるもので溢れている。
それに、あと数年もすればジュナは兵役を課される。軍兵教習所での生活に、ジュナが耐えられるとはどうしても思えなかった。レモは胸の前で両手を握り締めた。今もジュナの額や首筋には汗が滲んでいる。テレザが気づいているのかはわからない。気づいていると思いたい。ジュナはいつもどおり、テレザを元気づけようと笑っている。朗らかに荷物をまとめている。けれど、ジュナが今、体が震え出すのを必死で堪えているのが、双子である自分には自分の体のことのように痺れとして伝わってくる。
(ここは、この国はジュナにとってはとてもいい国だったわ。広くて、おおらかで、遮るものが何もない。)
レモは手をせかせかと動かしながら逡巡した。
(だけど、戦争が始まってしまうのなら、この国はジュナには辛すぎる。)
『この国は、いや、この世界全体がさ、いずれ遠からず、消えてなくなるだろうと言われているよ』
頭の中で、数か月前にヘイニが零した言葉が蘇った。
『そういう運命にある。だからどうあがいたって仕方のないことなんだけどね。けれどそれでも人っていうのは足掻かずにはいられない生物らしい。きっと何処かには助かる土地が、道があるはずだ、と言って、領土をここぞとばかりに広げようとしている帝国軍がいる。運命どうこうより、戦争で世界が滅びる日も近いかもしれないね。だけどどうすることもできないよ。ヤファラーシャのポーフェルへの宣戦布告を皮切りに、世界中に戦争が大流行りしているみたいで気味が悪い』
「お母さん」
レモの静かな声に、テレザは手をしばし休めて顔を上げた。
「何?」
「お母さん、ごめんね、先に謝っておきたいの」
テレザは不安げに眉をひそめた。
レモは微笑んだ。
「わたしきっと、お母さんとジュナのどちらかしか選べないなら、きっと・・・迷わずジュナを選ぶと思うの」
テレザは何も言わない。
その薄茶の瞳で、静かにレモを見つめている。
「どちらも守れるならかっこいいと思う。本当はそう言いたい。だけど、わたしの片割れだから。ジュナはわたしのただ一人の兄弟だから。ごめんね」
テレザは困ったように微笑んだ。
「この子は酷いことを言うのね。しかもこんな時に」
テレザはそう言って、急に吹っ切れたようにくすくすと笑った。
「それが正しいあり方よ、貴方達の、ね。本来の姿だわ、貴方の」
「お母さん・・・?」
「勝手になさい」
テレザは柔らかく笑った。そうしてレモに背を向けると、台所の下の棚を開いて食料をいくつか袋に詰める。
「そんな台詞はジュナだったらとてもじゃないけど出てこないわね」
くすり、と笑った。
「貴方が誇らしいわ。私なんかが母親なんて荷が重すぎると思っていたけれど・・・ちゃんと育ってくれてよかった」
「お母さん、ごめんね」
きっとテレザは責めていない。心からの言葉だと、レモにもわかった。
けれど、とても胸が痛い。
先に矢を突き立てたのは自分なのだから、甘んじなければいけないとも理解できた。
それでも、体がひどく軋んだ。
「謝る必要ないわ。だって私は、そういう貴方【達】が大好きだったんだもの、昔も、・・・今も」
(達?)
レモは母を静かに見つめたが、もうそれ以上テレザは何も言わなかった。
ただその口元が、静かに誰か知らない名前を呟いたように思えた。

ア、ピュ、リュ、テ。





ニ、へ続く

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二、

それはまた別の時間の物語。閑話。

数年前と比べれば、驚くほど体つきが大人に近づいた青年は、川の水で頭ごと乱暴に洗う。髪の毛から滴る冷たい水を気にも留めず、青年は揺れる水面に映る自分の姿をじっと睨みつけた。
成長が止まっていたはずの自分の体は、確実に少しずつ、止まった時を取り戻すかのように今更人並みの時間を歩み始めていた。そしてそれは、青年にとってはとても残酷なことだった。
自分は老いることはない。時が動き出すことはない。だからこそ待てると思ったのだ。彼女を待っていてやれると信じられた。だからあの時、別れの言葉を告げないで済んだ。もしいつか、先に自分が逝くならば、それでもあの時別れを告げなくてよかったと思えるのだろうか。
わかっている。大嫌いだった。いけすかなかった。それなのにいつしか心が惹かれるようになって、そうして自分の時間は動き出してしまったのだ。
「それとも、爺さんになる前にまた時は止まってくれる?」
青年は誰に言うでもなく呟いた。
青年は、ミルケラーファとかつて呼ばれた種の、最後の生き残りだった。物心ついたころには、自分のほかにミルケラーファは途絶えていた。だから自分の体の仕組みも、生命力もよくわからない。古い文献を読み漁ってなんとなく把握するくらいのことしかできない。
栄養がそんなに足りていないせいか、身長だけは伸びたがそれでも青年はまだ体の線が細かった。けれど、食べ物は共に連れている少女とも少年とも呼べない存在にきちんと与えなければならない。馬鹿げているとは思った。彼女の体はあくまで人間の体だ。どうせあと数十年もすれば勝手に老いて死んでいく。だから、今朽ちようが生きようが大差はないはずだった。それでも青年には、ショーネには、彼女の体を生かさないではいられなかった。彼女の中に宿っている魂はもうすでに他人のものだけれど、それでも捨てられなかった。
「服までずぶぬれじゃないか。さっさと頭くらい拭けよ。風邪引いたって知らないからな」
少女の声で乱暴な物言いが背中に浴びせかけられる。ショーネはのろのろと振り返った。いつになく動作にキレのないショーネの様子に、少女は顔をしかめる。
エゼルと名付けられたその少女は、少年のような雰囲気を携えている。それは仕方のないことだった。そして、だからこそ、ショーネは今目の前にいる存在と、【彼女】が全く別物だと実感できるのだ。ありがたいことだった。
「お前に指図される言われはないよ」
ショーネは獣のように頭を振り水滴を飛ばした。そのまま頭をガシガシと掻きながらけだるそうにテントの方へもどる。
そんな彼の後ろ姿を見ながら、エゼルは何とも言えない表情をした。
「置いていかないでくれよ」
「は?勝手についてくればいいことだろ」
「ちがうよ」
エゼルは頭を振る。
「先に大人になるなよ。僕は一人取り残されるのは嫌だよ」
「安心しろよ、僕がいなくなってもお前の嫁のやり手くらいどこでもあるよ」
ショーネはエゼルの姿をさっと見てから言い捨てた。
「あんたがよくないだろ」
エゼルは呆れたように言った。
「この体は借り物だよ。僕の体じゃない。そしてこの体はあんたのものだろ?」
「そんな約束あいつと交わした覚えはないよ」
呆れたようにショーネは言った。狼のような銀色の鋭い目がすっと細められる。
「でも同じことだろ?この体はいつか返すんだ。絶対に返すんだ。だから、その時まで僕も生きなくちゃいけないし、あんたにも生きてもらわなきゃ困る」
「ガキが生意気言ってんじゃねーよ」
心底厭そうにショーネは言った。
「人間一人が、この世の終わりの日まで生きれるわけないだろ。馬鹿か」
「じゃあこの世がすぐに消えるようにすればいい」
エゼルは大まじめだった。ショーネは呆れた。エゼルは人として長すぎるときを生きられなかったせいで、このあたりの倫理観がひどく欠落していた。
「そういうことじゃないだろ」
ショーネは心底疲れる心地だった。
「お前のためにあいつはお前と入れ替わってやったんだけど?大事にしろよ。せめてまっとうに生きてくれ。お前が人並みに幸せになるまでは俺が面倒くらい見てやるから」
「頼んでないよ」
エゼルはむっとした。その表情をショーネは凪いだ気持ちで眺めていた。中身が違うだけで、こうも別人に見える表情にただ感心させられる。
けれど今でも、その色違いの瞳を好きだと思った。外側がなくても、彼女を求める気持ちは変われないと思っている。けれど同時に、この顔が嫌いじゃないのだ。
そこでようやく、ショーネは自分が思った以上に【彼女】に想い入れていることに気付いた。舌打ちする。こんなはずじゃなかったのに。
髪を縛るのが嫌いで髪をいつも風になびかせていた彼女の体は、今はそのやわらかな薄茶の髪を後ろで一つに縛っている。印象が違って見えるのはそのせいでもあった。
エゼルを連れて歩きまわっているのは、きっと自分のわがままなのだとショーネは自覚している。ほんとうにエゼルを、【彼女】が願ったように人並みに終わらせてやりたいのなら、さっさとどこかに置いてくればいいだけの話だ。なのに手放す勇気はまだ出なかった。自分の体がどんどん変わっていく。大人のそれになっていく。きっと、だからこそ余計に不安なのだ。たとえそれが彼女自身ではないとしても、今この体さえ自分のもとから消えてしまったら、今度こそ耐えられない気がした。
思っていたよりもずっと、あの別れが自分に堪えていたのだ。
ショーネはぼんやりと朝焼けを眺めた。こんなにも終わりが怖いだなんて、知らなかった。
人の一生を考えたら、まだまだ先は長いのかもしれない。そもそも自分は、人という種よりもずっとずっと長く生きるミルケラーファだ。それでも、今まで、文献に残されているミルケラーファの寿命よりもはるかに長く生きてこられていたのは、自分の成長が子供のまま不自然に止まってしまっていたからだと思っていた。それがこの数年で、本来なら人よりも長い時をかけて大人へと変わっていくはずの体が、人と同じ速度で成長してしまっている。
堰き止められていた時が、今までの空白を埋めるかのように急激に進み始めている。
(また、会えるんだろうか。ほんとうに?)
ショーネはただどうしようもなくたたずんでいた。
(本当に、僕はあいつを待っていてやれるの?)
「君は僕を人だ人だと馬鹿の一つ覚えみたいに言うけれど」
エゼルの静かな声がショーネを引き戻す。
「君は大事なことを忘れているよ。僕はたしかにかつて人だったかもしれない。人になるはずのものだったかもしれない。けれど僕は人にはならなかった。なれなかった。僕は大樹だ。たとえこの体を得たって、それは変わらない。君が君の心のせいで時を止めて生きられていたというのなら、僕ができないなんて保証なんかどこにもない」
エゼルはまっすぐにショーネの瞳を見据える。
「僕は、僕を生かしてくれた君を、君たちを絶対に置いていかない。置いて行ったりしない。僕は生きて生きて生きて、絶対あいつらに仕返ししてやるんだ。勝手に僕を助けて、勝手に自分を贄にしたあいつらに、罰を与えてやるんだ。そうしないと気が済まない。だから僕はそれまで絶対に死なない!!そして君も絶対に死なない!!僕が死なせたくないと思っているから!!」
エゼルは滅茶苦茶な理屈を叫んだ。ショーネは真っ赤になったエゼルの表情を静かに眺めていた。ふと、その眼から一筋の涙が流れて、頬を伝った。エゼルは眼を見開いた。ショーネは気づいてはいなかった。ただ、エゼルの、否、レモの顔を見つめていた。
(僕に会いたいか、聞けばよかった。聞いておけばよかった)
ショーネは微かな声で心の中で呟いた。
ただ一つ後悔があるとするなら、それだけだった。あまりにも時は長すぎる。どんなふうに今まで時をやり過ごしてきたか、よく思い出せずにいる。




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二、

それはまた別の時間の物語。閑話。

数年前と比べれば、驚くほど体つきが大人に近づいた青年は、川の水で頭ごと乱暴に洗う。髪の毛から滴る冷たい水を気にも留めず、青年は揺れる水面に映る自分の姿をじっと睨みつけた。
成長が止まっていたはずの自分の体は、確実に少しずつ、止まった時を取り戻すかのように今更人並みの時間を歩み始めていた。そしてそれは、青年にとってはとても残酷なことだった。
自分は老いることはない。時が動き出すことはない。だからこそ待てると思ったのだ。彼女を待っていてやれると信じられた。だからあの時、別れの言葉を告げないで済んだ。もしいつか、先に自分が逝くならば、それでもあの時別れを告げなくてよかったと思えるのだろうか。
わかっている。大嫌いだった。いけすかなかった。それなのにいつしか心が惹かれるようになって、そうして自分の時間は動き出してしまったのだ。
「それとも、爺さんになる前にまた時は止まってくれる?」
青年は誰に言うでもなく呟いた。
青年は、ミルケラーファとかつて呼ばれた種の、最後の生き残りだった。物心ついたころには、自分のほかにミルケラーファは途絶えていた。だから自分の体の仕組みも、生命力もよくわからない。古い文献を読み漁ってなんとなく把握するくらいのことしかできない。
栄養がそんなに足りていないせいか、身長だけは伸びたがそれでも青年はまだ体の線が細かった。けれど、食べ物は共に連れている少女とも少年とも呼べない存在にきちんと与えなければならない。馬鹿げているとは思った。彼女の体はあくまで人間の体だ。どうせあと数十年もすれば勝手に老いて死んでいく。だから、今朽ちようが生きようが大差はないはずだった。それでも青年には、ショーネには、彼女の体を生かさないではいられなかった。彼女の中に宿っている魂はもうすでに他人のものだけれど、それでも捨てられなかった。
「服までずぶぬれじゃないか。さっさと頭くらい拭けよ。風邪引いたって知らないからな」
少女の声で乱暴な物言いが背中に浴びせかけられる。ショーネはのろのろと振り返った。いつになく動作にキレのないショーネの様子に、少女は顔をしかめる。
エゼルと名付けられたその少女は、少年のような雰囲気を携えている。それは仕方のないことだった。そして、だからこそ、ショーネは今目の前にいる存在と、【彼女】が全く別物だと実感できるのだ。ありがたいことだった。
「お前に指図される言われはないよ」
ショーネは獣のように頭を振り水滴を飛ばした。そのまま頭をガシガシと掻きながらけだるそうにテントの方へもどる。
そんな彼の後ろ姿を見ながら、エゼルは何とも言えない表情をした。
「置いていかないでくれよ」
「は?勝手についてくればいいことだろ」
「ちがうよ」
エゼルは頭を振る。
「先に大人になるなよ。僕は一人取り残されるのは嫌だよ」
「安心しろよ、僕がいなくなってもお前の嫁のやり手くらいどこでもあるよ」
ショーネはエゼルの姿をさっと見てから言い捨てた。
「あんたがよくないだろ」
エゼルは呆れたように言った。
「この体は借り物だよ。僕の体じゃない。そしてこの体はあんたのものだろ?」
「そんな約束あいつと交わした覚えはないよ」
呆れたようにショーネは言った。狼のような銀色の鋭い目がすっと細められる。
「でも同じことだろ?この体はいつか返すんだ。絶対に返すんだ。だから、その時まで僕も生きなくちゃいけないし、あんたにも生きてもらわなきゃ困る」
「ガキが生意気言ってんじゃねーよ」
心底厭そうにショーネは言った。
「人間一人が、この世の終わりの日まで生きれるわけないだろ。馬鹿か」
「じゃあこの世がすぐに消えるようにすればいい」
エゼルは大まじめだった。ショーネは呆れた。エゼルは人として長すぎるときを生きられなかったせいで、このあたりの倫理観がひどく欠落していた。
「そういうことじゃないだろ」
ショーネは心底疲れる心地だった。
「お前のためにあいつはお前と入れ替わってやったんだけど?大事にしろよ。せめてまっとうに生きてくれ。お前が人並みに幸せになるまでは俺が面倒くらい見てやるから」
「頼んでないよ」
エゼルはむっとした。その表情をショーネは凪いだ気持ちで眺めていた。中身が違うだけで、こうも別人に見える表情にただ感心させられる。
けれど今でも、その色違いの瞳を好きだと思った。外側がなくても、彼女を求める気持ちは変われないと思っている。けれど同時に、この顔が嫌いじゃないのだ。
そこでようやく、ショーネは自分が思った以上に【彼女】に想い入れていることに気付いた。舌打ちする。こんなはずじゃなかったのに。
髪を縛るのが嫌いで髪をいつも風になびかせていた彼女の体は、今はそのやわらかな薄茶の髪を後ろで一つに縛っている。印象が違って見えるのはそのせいでもあった。
エゼルを連れて歩きまわっているのは、きっと自分のわがままなのだとショーネは自覚している。ほんとうにエゼルを、【彼女】が願ったように人並みに終わらせてやりたいのなら、さっさとどこかに置いてくればいいだけの話だ。なのに手放す勇気はまだ出なかった。自分の体がどんどん変わっていく。大人のそれになっていく。きっと、だからこそ余計に不安なのだ。たとえそれが彼女自身ではないとしても、今この体さえ自分のもとから消えてしまったら、今度こそ耐えられない気がした。
思っていたよりもずっと、あの別れが自分に堪えていたのだ。
ショーネはぼんやりと朝焼けを眺めた。こんなにも終わりが怖いだなんて、知らなかった。
人の一生を考えたら、まだまだ先は長いのかもしれない。そもそも自分は、人という種よりもずっとずっと長く生きるミルケラーファだ。それでも、今まで、文献に残されているミルケラーファの寿命よりもはるかに長く生きてこられていたのは、自分の成長が子供のまま不自然に止まってしまっていたからだと思っていた。それがこの数年で、本来なら人よりも長い時をかけて大人へと変わっていくはずの体が、人と同じ速度で成長してしまっている。
堰き止められていた時が、今までの空白を埋めるかのように急激に進み始めている。
(また、会えるんだろうか。ほんとうに?)
ショーネはただどうしようもなくたたずんでいた。
(本当に、僕はあいつを待っていてやれるの?)
「君は僕を人だ人だと馬鹿の一つ覚えみたいに言うけれど」
エゼルの静かな声がショーネを引き戻す。
「君は大事なことを忘れているよ。僕はたしかにかつて人だったかもしれない。人になるはずのものだったかもしれない。けれど僕は人にはならなかった。なれなかった。僕は大樹だ。たとえこの体を得たって、それは変わらない。君が君の心のせいで時を止めて生きられていたというのなら、僕ができないなんて保証なんかどこにもない」
エゼルはまっすぐにショーネの瞳を見据える。
「僕は、僕を生かしてくれた君を、君たちを絶対に置いていかない。置いて行ったりしない。僕は生きて生きて生きて、絶対あいつらに仕返ししてやるんだ。勝手に僕を助けて、勝手に自分を贄にしたあいつらに、罰を与えてやるんだ。そうしないと気が済まない。だから僕はそれまで絶対に死なない!!そして君も絶対に死なない!!僕が死なせたくないと思っているから!!」
エゼルは滅茶苦茶な理屈を叫んだ。ショーネは真っ赤になったエゼルの表情を静かに眺めていた。ふと、その眼から一筋の涙が流れて、頬を伝った。エゼルは眼を見開いた。ショーネは気づいてはいなかった。ただ、エゼルの、否、レモの顔を見つめていた。
(僕に会いたいか、聞けばよかった。聞いておけばよかった)
ショーネは微かな声で心の中で呟いた。
ただ一つ後悔があるとするなら、それだけだった。あまりにも時は長すぎる。どんなふうに今まで時をやり過ごしてきたか、よく思い出せずにいる。




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